(るりざん・しょうぼうじ)
正法寺は薬師瑠璃光如来を本尊とし、その歴史は江戸時代にさかのぼり、地域の薬師信仰の霊場だったと伝えられるが、 明治以前の歴史は記録が残されていないために不詳。
正法寺の寺号を公称したのは昭和二十二年のこと。それまでは穂波四国八十八ヶ所霊場の第四十七番八坂寺として通称され、信仰を集めていた。
穂波四国八十八ヶ所霊場は旧穂波郡の四市町(穂波町、桂川町、筑穂町、飯塚市)に広がり、明治末期に設立準備が始まり、正法寺も加わり大正二年に開創された霊場。
穂波町誌(昭和四十四年発行)によれば、かつて第四十七番八坂寺に付属した形で布教活動が行われていたが、信者たちの要望で、昭和二十二年に正法寺として独立したと記されている。 戦後、当時の住職の布教によって信者が増えて活動も盛んになったために、正式な寺院として独立することが望まれ、正法寺と称したようだ。
その当時の住職とは京都総本山仁和寺の第四十三代門跡の立部瑞祐大僧正のことで、戦後間もない頃、宗像の鎮国寺に晋住する前に正法寺の住職を勤めていた。 その縁もあって正法寺は仁和寺末の御室派に属している。なお、第四十七番八坂寺のお堂は、その後も境内の本堂脇に建っており、今も石仏の阿弥陀如来が祀られている。
その後、昭和二十八年に素栄禅定尼が住し、遷化の後、小郡市の九州八十八ヶ所霊場第三番札所如意輪寺の原口元秀住職が兼務した約二十五年を経て、平成十九年に原口性亮住職が晋山した。 性亮という僧名は平成二十年七月に遷化した中国西安の大興善寺の界明法師のもとで得度してもらったもので、界明法師の日本人初の弟子となる。
晋山後、原口住職は本堂の老朽化が激しかったため、新本堂建立など伽藍復興を発願し、平成二十一年春、優美な本堂、庫裏が竣工した。現在、壇信徒会館を建設中。
本堂は町を見下ろす高台にあり、遠くからも本堂と大きな仁王像(石像)を望むことができる。正法寺のある旧穂波町地区は炭鉱で栄えた街で、正法寺の近くには筑豊炭鉱の坑道があり、煉瓦造りの巻き上げ機の台座が近くに残っている。
年間の行事は毎月二十日に護摩供が中心。今後は大祭なども企画していくほか、特色ある寺づくりを進め、地域住民の安らぎの場となることが願われている。
宗派 | 真言宗御室派 |
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本尊 | 薬師如来 |
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